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さんせいとうについて考えるのが、日々の生活のメインになっているわけですが、東浩紀の無料雑談なんかを聞いたりして、日本人とは、を再び考えたくなってきている、というか考えてしまうのです。東浩紀が言う、「雑種」というのは、まさにその通りだし、わたしは「矛盾している」ということこそが、日本的だと思っていて、それはまったく誇れることではないけれど、個人的には愛らしくて、見方次第では、そこに美的ななにかを見出すこともできる。落語の業の肯定的な感性とも結びつく。詳しくは、『菊と刀』とか、『ものぐさ精神分析』、からの『いきの構造』、『談志最後の落語論』をよむとよくわかるはず。政治はどうなろうとどうにもできないし、レッセフェール、という感じではあるのですが、個人的にはこの矛盾というのを表現し続けたさはある。
(矛盾に関しては、今回の参院選全く関係ないのですが。。。ただの持論)
で、私は最近古本屋さんをゆるゆる準備しているわけですが、選書を尖らせなきゃと考えたときに、70、80年代ジャパンサブカルチャーかも、と思っていたのでした。単純にビジュアルやテンションとして、90年代ほどトンマナが見つかっていないし、新鮮さがある。そして、あのころの日本人は、とにかく欧米の文化に憧れ、憧れるがままにその文化を取り入れていた。その能天気さとか、奇妙な文化の融合が個人的にとても心地がいい。海外から見た日本らしさを意識したような表現がとても嫌いで、かといって、欧米かぶれも、韓国的な表現も相容れない(好きだけどね)。ということで、そういう選書を進めようかなと思っているけど、まじで時間の使い方考えないといけない。。。今わたしはなんの作業をすべきなのか。そしてゲンロンの求人、気になっている・・・・
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