229(反解釈1)

菊地さんを見た。HATRAがよく似合っていた。帽子をかぶって登場し、途中ではずした。
菊地さんの合図で演奏がころころと展開していく。指揮者のようだが、彼自身も夢中になって楽器を操っていた。必死だった。必死だよ。ピアノの林さんは常に余裕そうだった。みんな,お休みの時間があってそのときに、必死に演奏するメンバーを見守る時間がよさげだった。
わたしは寝不足が効いて、途中で意識が飛びそうだった。ねむってしまいそうというよりは、気を失いそうだ、と思いながら音楽を聴いていた。青と黄色の鋭く強い照明が、その意識をさらに遠くへ連れ去ろうとした。必死で抵抗した。俺は音楽に酔っているのだから、意識が飛ぶはずなどないとつなぎとめた。やはり、大人数のバンドは素晴らしかった。この間誘われたバンドになんとかしてでも入ればよかったかもと少し思った。ドラムが異次元だった。多少わかるドラムであんだけ異次元なので、全パート異次元なのだとおもう。
私があのフレーズを叩けるようになるのに最低でも3ヶ月丸ごと練習する必要があると思った。変拍子のオンパレード、変拍子から4分の4に戻る時の高揚感はやばかった。ジャズは緊張と緩和だ。最高のジャズで踊らせてくれるラディカルな意志のスタイルズ。


と、ここまでその日の晩にほぼ眠りながら書き殴った。
続きを書く。

28日22:30 都営新宿線内で記す。


省略を禁ずる、という曲では、まず会話に楽器の演奏を重ねた録音が流れた。あれは,聞いたことのない音楽だった。語りではなく、会話に音を乗せていた。そして、会話を聞かせるわけでもなく、会話を楽器のように扱って,一つの音楽を作っていた。そして、生演奏にはいる。菊地さんが1人で語りながら、音楽を操る。声(文章)と音が重なり、やがて声だけになり、また音と重なった。すべてを菊地成孔が支配するような演出。省略を禁ずる、の内容は、ふとした愚痴ツイートを100倍に含みを持たせ、100倍に遠回しに、100倍にロマンチックにしたようなものだった。まさにこれこそが菊地成孔の言葉だと思った。菊地さんは、難しい言葉を使って、時事ネタを盛り込んで、かつ暗喩的に表現をすることで、知識階級の感心を引き寄せるが、言葉を操るのが上手いね〜だけでは片付けてはいけない。彼は、知性や語彙や論理を巧みに操ることで、それらが普段とどまっている次元を超越させ、それらを物語やムードの一部とするのである。敷き詰められた言葉たちが、言論空間を超えロマンチシズムとなる。語り尽くすことで、意味や論理から離れていく様子は、菊地成孔の文章と語りでしか感じたことがないし、ここに彼の真髄がある。それを、今回反解釈1での、省略を禁ずるという曲を聞いて再認識した。とともに、彼の音楽表現においてもこれは同じことが言えるのではないかとおもった。大人数のバンドで、変拍子をやり、即興をやり、手数を尽くした音楽をつくりながら、グルーブを保って観客を踊らせる。いずれも,プロフェッショナルのみがなせる技だ。
わたしが菊地さんに決定的に射抜かれたのは今年の6月末。まだ半年も経っていないのに、感性を調教されすぎている。そしてこの感性を圧倒的に信じている。




p.s. 昨日買ったHATRAデザインのTシャツを冬なのに無理して着て行ったら、編集部の5分の3が反解釈1に行っていた。なんだよ、みんなこれを信じてるなら、次号はラディカルな意志のスタイルズ特集をやるっきゃない!

p.p.s スーザンソンタグはどこにもいない(?)

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