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やなせじろうが、EP馬で、描き残した夏は、確かに2023年(今)なのだが、大島渚の夏のような気もするし、わたしがかつてあの人と過ごした夏のような気もする。
これからは、恣意的でない音楽が流行る、
偽りの恣意の描写はバレはじめ、信頼をなくしつつあるからだ。
ゆえのtohjiであり、tamanaramenか、曖昧なニュートラル、そして、グレーの時代である。
ただ、リアルの扱いについても、引き続き追求していきたい。恣意的でないリアル、について。
わたしは、今年のはじめにはじめてbetcoverのライブに行って、これは音だ、と思って、音圧でやられる、圧倒的なbetcoverにしか作り出せない空気の中で、なにか、薬でも吸ってしまったか、と振り返るような、多幸感に連れていかれた、その大きな要因は、音だった。だから、わたしはあのときから今に至るまでbetcoverの歌詞に対して関心が薄かったのだが、馬を聴いて、やっべえやっべえとなっている。「日本の夏」が、立ち上がっていてヤバい気持ちになっている、なんというか、ナショナリズムですらある、こわい、美しくてさらに怖い。
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