私がbetcoverを好きなのは“前近代的な日本”的であるからで、それはもう、明治文学から、田園風景、昭和のマチズモまで。を浴びている。多分私の勝手な解釈が大きくで、柳瀬くんはどこまで、日本というものを意識しているのか、知らないし、全く意識していないかもしれない。

でも私はbetcoverの音楽に対してそういうものを求めている。

表現において、どんなマチズモも許されなくなった今、(というか普通に自然に冷めるわけだが)、betcover だけはそれを、飄々とやってのけている。男、というものを、さらに言うと、日本の男、というものを意識させる。私には、椎名林檎のnipponの、radwinpsのhinomaruの1億倍、日本的に思える。

でもなぜ、女である私が、betcoverには嫌悪感を抱かないのか。それは、99年生まれの若造が、パフォーマンスとして完璧にやっているからではないか。幻になったマチズモ、憧憬としてのマチズモ。かなわない。リアリティがない。歌詞の内容が、あまりにも実生活から距離がある。関白宣言は、さだまさし(というか当時の日本人男性)がガチで考えていることみたいでグロいが、バーチャルセックスは、しぬほど暴力的だけど、ファンタジーとしての暴力という感じがする。とはいえ、逆に、ファンタジーすぎて、嘘とまるわかりの暴力だったら、あんな臨場感のあるライブはできなくて、柳瀬くんにどこか、マジかもと思わせる狂気があるところもポイントである。さらには、バンドメンバーの立ち姿、衣装などもそれを助長される。

今の時代だからこそ、一周回ってマチズモをエモにしている稀有なバンドである。私はそういう矛盾が大好き。矛盾をはらんでないと、嘘っぽくて信用できないし。アンビバレンスにこそ、なにかを飛び越える力があると思っている。まあこれは戦後日本人の精神構造そのものでしかありませんね、、、はははは、やんなっちゃう



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